2010年 加バンクーバー五輪

 2010年2月のある日、私は取材で訪れていたカナダ・バンクーバーのオリンピック・リンクのゲートの前で、日本電産サンキョー・スケート部の高村洋平コーチらとともにゲートが開くのを待っていた。しばらくするとそこに、初の五輪代表入りをした小平奈緒とコーチの信州大学結城先生が現れた。その時、小平奈緒は初めての経験するオリンピックの緊張からか? 強張った顔を青白く光らせていた。青白く強張っていたというのはあくまで私の勝手な印象だが、普段はあまり無いネクタイ姿の私を見つけた結城先生は彼女の前で私の方を向いて「珍しくネクタイをしてるよ!」などと軽口を叩いた。あくまで私と対する時だが、普段は冗談を言ったり軽口を叩くような感じじゃない結城先生がそんなことを言ったのには、やはり彼女の極度の緊張を考えてのことなのだろうと私は予想した。
 ちなみに、そのバンクバー五輪で小平奈緒は、団体のパシュートで銀メダルを獲得したものの、個人のレースでは平凡な結果に終わってる。
 私は、大菅小百合や加藤条治など五輪のメダル獲得を期待されながらも、初めての五輪という舞台に普段通りの力を発揮することができずに、その重圧に押しつぶされてきた選手たちの姿を間近で見ていたので、同じような雰囲気をその時の小平奈緒にも感じていたのかもしれなかった。

 小平奈緒はジュニア時代、スーパー中学生と言われ年上の吉井小百合のタイムを上回るなど、早くから非凡な才能を発揮していた。私がスピードスケートの取材を始めたばかりの頃、よくリンクで一緒になっていた他のライターや記者たちが、彼女のレースになると「スーパー中学生が出てきた!」とよく呟いていたのを覚えている。しかしそんな彼女が、本当にその非凡な才能を発揮し始めたのは、かなり後のことだった。バンクバー、ソチと個人のメダルには届かず、その本当の強さを発揮し始めるのはその後のことである。そしてご存じのように、2018年の平昌五輪で見事、スピードスケート日本人女子としては史上初の金メダルを獲得するわけだが、私がバンクーバーで見た小平奈緒はまだまだその真の強さを発揮しきれていない、強い緊張感をその瞳の奥に見せていた初々しさを感じさせるほどの新人オリンピアンだった。その頃の彼女にはまだ、後のレースで無双する強さをまだ宿していなかった。私の彼女の印象は、その頃のものがすべてだった。後に彼女がその真の強さを発揮する頃には、すでに私はスケート取材から離れていたのだった。

 カナダでの冬季五輪は、1988年のカルガリーに続き二度目だった。そのカルガリーでは、五輪後にW杯や世界スプリントなどの国際大会が行われ、私もレースや夏合宿の取材でよく訪れていた。
 他にカナダというと私は、メジャーリーグの取材・撮影の初年2004年に当時エキスポスという球団があったモントリオールを訪れたことがある。また2009年にはジャズ専門誌の仕事でカルガリー~トロント~オタワ~モントリオールとジャズ・フェス巡りという取材の旅をしたこともある。バンクバーを訪れたのは、2010年の五輪が初めてだった。過去にアメリカに住んでいたので、カナダは身近に感じる国だった。それに、英語が通じないヨーロッパの国よりも旅がしやすかったということもあった。
 実は私は、そのバンクバー五輪で訪れたバンクバーを最後に海外に行ってない。また懐かしいニューヨークやボストンなどアメリカにも行ってみたいのだが、なかなか現在は海外旅行が以前と比べ難しくなっているように感じる。特にアメリカはそうだろう。しかし、こんなサイトを作っているうちにまた海外に、そして次の冬季五輪に行ってみたいなという気持ちが芽生えてきている。そして、次のそのまた次の五輪は思い出のソルトレークシティで開催されることが決まっている。その時は、もし叶うならあの時リンクの客席から見ていた大菅小百合や今村俊明元監督とご一緒にできないものかと密かに考えている。