2002年 米ソルトレークシティ五輪

 それは私にとって初めてのアメリカであり、初めての海外だった。私は2002年2月アメリカ合衆国ユタ州ソルトレークシティに降り立った。私はその翌々年の1月かアメリカ~ニューヨークで生活することになるのだが、そのソルトレークシティに行くまで、アメリカはおろか、日本からまったく出たことが無かった。そして、その大いなる一歩が2002年2月のソルトレークシティ五輪の取材だった。
 私は前年の10月、角川書店北海道の雑誌「北海道ウォーカー」編集部から、スピードスケートを含むいくつかのウィンター・スポーツで五輪出場が期待される注目選手たち、とりわけ北海道出身の選手を取材して欲しいと言われていた。そこで10月末、長野エム・ウェーブで行われた全日本距離別選手権で初めてスピードスケートの取材に出向き、500メートルで初優勝を果たし一役注目を集めることとなった大菅小百合と出会った。
 初めて知った大菅小百合は、とても輝いて見えた。ウォーカー編集部からは取材対象として清水宏保、岡崎朋美、三宮恵理子といった名前が挙がっていたのだが、私は大菅小百合の輝きに満ちたその笑顔に魅入られ、すぐに編集部に「大菅小百合で行きましょう!」と連絡を入れた。
 大菅は全日本距離別の後も、W杯のレースで3位に入るなど活躍を見せ、12月の全日本スプリントの500メートルでも優勝し、見事、五輪出場の切符を手に入れた。全日本スプリントが終わった直後、私はエム・ウェーブで大菅と初めて直接話をした。大菅はレースで見せた通りの輝く表情をしていた。私は、すっかり大菅小百合に夢中になっていた。

 全日本距離別~全日本スプリントで夢中になってしまった大菅小百合のことを、同じくスポーツを取材する先輩カメラマンに話をすると、その先輩から「絶対に追いかけるべきだ!」と言われた。そして「もし五輪に取材に行くのなら、雑誌を紹介するから」とも言われた。しかし、その先輩カメラマンは一緒に五輪取材には行けないと言う。当時、私はまだ本格的に写真を撮り始める前だったので、どうしようかと考えた挙句、北海道内でコンサドーレ札幌などの取材でカメラマンを務めていた札幌在住のフリー・カメラマンに、一緒にソルトレークシティに取材に行ってくれないか? と打診したところ、OKの返事をもらったので。私はそのカメラマンと連れ立って2002年2月ソルトレークシティに飛んだ。
 取材はチケットを買って行った。私たちは、会場に入り大菅小百合の地元・北海道標津町の応援団の近くに陣取り、レースを見守った。結果は500メートルの2本目で、大菅はスタート直後にバランスを崩し12位に終わり、メダル獲得には及ばなかった。これが初めて経験するオリンピックという重圧だったのだろうか? なんにしても、オリンピックでメダルを取りたいと言っていた彼女の希望は果たせなかった。

 レース後、スタンドで応援していた両親のもとにやってきた大菅小百合は涙にくれた。私は、家族のもとで涙を流す大菅に声をかけることはできなかった。その時のことは角川書店の「SPORTS Yeah!」誌ほか、地元北海道のローカル誌にも掲載された。
 大菅小百合は、レースは失敗し涙を流したが、私を初めてのオリンピック取材という大きな仕事に導いてくれた。そして、そのことがきっかけで私は積極的に海外に取材に出るようになり、次の冬季五輪に向け自分をもっと成長させ、必ずや自分が大菅小百合の次の五輪での雪辱を取材するんだと強く誓っていた。
 大菅小百合は冬季五輪という大きな舞台へと私を導いてくれた。そして、さらに高みを目指したいという気持ちを私の心の中に芽生えさせ、後に私をアメリカ~ニューヨークへ導くのだった。その私がニューヨークで仕事をするきっかけとなった、当時、西武ライオンズからニューヨーク・メッツへFA移籍した松井稼頭央は、大菅小百合が大好きな選手だった。松井稼頭央との縁は、元々西武ライオンズ関係の仕事をしていたからだったが、そこでも大菅小百合と繋がったことに私は運命を感じた。
 カメラにはぜんぜん興味がなかった私が写真を撮るようになったのも、海外に出るようになったのも、すべて大菅小百合と、彼女が導いてくれたオリンピックがきっかけだった。その後私は、彼女が所属していた日本電産サンキョー・スケート部(当時三協精機)に密着するようになり、今村俊明監督や妹の淳子、加藤条治、吉井小百合、長島圭一郎、小原唯志といった素晴らしい選手たちと出会い、彼らを大菅小百合とともに追いかけ、トリノ、バンクバーと合わせて計3回の五輪取材を経験することになる。そこに導いてくれたのは、何度も言うようだが、間違いなく大菅小百合だった。私は彼女によって、冬季五輪の取材を3大会経験させてもらった。そのことに関しては、あの頃から今もずっと感謝の気持ちが消えないでいる。大菅小百合が引退し、同じく追いかけてた吉井小百合も引退。出版不況の中、スポーツを扱う雑誌が激減し、私もスケートの取材から遠ざかってしまったが、今でもこんな文章を書いているのは、大菅小百合の存在が今も自分の中で大きなままの証拠なのかもしれない。
 私を五輪に連れて行ってくれてありがとう、大菅小百合選手。私は今も、初めてあなたに会った時の、その輝く笑顔を忘れてはいない。